天神祭について
天神祭りを語る前にまず天神さんとはどんな神様かを知らなければいけません。
壱・天神様とは・・・
菅原道真は宇多天皇が藤原氏の権力集中に対する抑えに重用し右大臣にまで登りつめました。
実際それだけの能力があった人だったのですが、それが逆に藤原氏の反感を買い次期天皇の醍醐天皇の代に藤原時平の中傷を醍醐天皇が信じ無実の罪で九州は大宰府に左遷されてしまいました。
罪人のため九州に向かう途中、泊めてくれる宿も無く・食事も貰えずとうとう最愛の息子を無くしてしまいました。
息子の亡骸を連れていくことも出来ず素手で息子の墓穴を掘り、その場に置いていかなければならないと言う辛い思いをして大宰府に辿り着きました。
そして過酷な境遇の中で恨みを残しその地で憤死しました。
道真が死んでから、都では天変地異が相次ぎ、藤原時平一族は相次いで変死するなどし、都の人々は「道真の怨霊」の祟りだと噂するようになりました。西暦九三〇年には宮中への落雷があり、この出来事がもとで醍醐天皇も崩御されました。
その後菅原道真の祟りを鎮めるため「天神様」として祀るようになりました。
弐・天神祭の起源
天暦五年(九五一)に、穢れを神鉾に託して、社頭の浜から大川に流す「鉾流神事」が始められました。神鉾の漂着した地を、その年の御旅所と定め、御神霊を遷座するのです。
この御神霊の渡御には、年に一度、神様が氏地の様子を巡見されるという意味合いも込められ、それを祝う氏地の人々によって「天神祭」が始められました。当社周辺の氏子たちは、御神霊にお供する「供奉船」を仕立て、また御旅所周辺の氏子たちも、多数の「御迎船」を仕立てて御神霊を奉迎しました。これを「船渡御」といいます。
江戸初期の元禄期(一六八八〜一七〇四)頃から、各町内では趣向を凝らした風流人形を拵え、町角で披露したあと、華やかに艤装した御迎船に飾り立てるようになりました。